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精神分析の教わり方

精神分析にはたくさんの専門用語があり、関連する書籍もたくさん出版されていますので、基本的には講座に参加したり、本を読んだりして勉強していくものだと思われがちかもしれません。精神分析が導入されて何十年も経っているのに、未だに輸入文化のぎこちなさが抜けない日本では、とくにそういうイメージが強いのでしょう。


実際には、精神分析というのはそれを生業とする人が行う実践活動です。そこから生まれた理論が哲学や思想の分野に影響を与えたことは確かでしょう。しかし、その理論を生み出したのは実地に行われた実践なのです。つまり、頭で「憶える」ものではなく、やって「覚える」ものなのです。実際にやってみて、身体と感覚で体得して、直観を研ぎ澄ましていく。そういうタイプのものです。ですから、学問というよりは、スポーツや音楽、各種アートに近いように思われます。


野球をやってみたかったら、ボールを投げたり、取ったり、打ったりしてみるしかありません。ピアノを習得したかったら、ピアノを弾くしかありません。憧れは、やらなくても持つことができます。しかし、できるようになるためには、やってみるしかない。スラムダンクを読んだらバスケを好きになるかもしれません。でも、バスケが上手になりたかったら、実際にボールに触って、上手な人とプレーしてみるしかないでしょう(「先生、バスケがしたいです」という三井の名セリフは、憧れとやりたいという感情を一言に凝縮しているので感動を呼ぶのかもしれません)。精神分析も、精神分析の本を読んだら精神分析に憧れを抱くかもしれません(嫌いになる人も多いでしょうが・・)。でも、精神分析を実践するには、実際にやってみるしかない。そういう活動です。


習い事:ピアノ

ところで、「精神分析の教わり方」というタイトルで熱く語っておりますけれども、精神分析を教わるのは分析家やセラピストになる人だけではないのでしょうか。このブログはクライエントには関係ないのでしょうか。


私の感覚では、分析治療を受けるということは、精神分析を教わることにかなり等しいと思います。分析セラピーを受けに来ているクライエントも精神分析を教わりに来ているのだと言っていいと思います。精神分析に興味を持ち、やってみないとわからないので、教わりに来るのです。動機は様々です。仕事のことや、家族関係のことや、対人関係のこと、性格のこと、過去のこと等々で、何らか躓きやわだかまり、乗り越えたいことがあるわけです。ですが、動機は違えど、精神分析でもってそのテーマに取り組んでみたいという点では共通しているのでしょう。そのやり方を専門家のところに教わりに来る、ということです。


でも、セラピストになろうというわけでもないのに、そこまでする必要があるのでしょうか。さきほど、精神分析はスポーツや音楽、アートに近いと述べました。ピアノを習おうとする人のほとんどは、職業としてピアニストやピアノの先生を目指すわけではないでしょう。少年野球チームや中高の野球部に入っていた人の中で、プロ野球選手になる人は独立リーグを含めても1%もいないと思われます。でも、プロになれないならやる意味ない!とはならないでしょう。動機は様々ですが、やってみたいからやるのです。そして、仕事にするわけではなくても、音楽やスポーツ、アートの素養はその後の人生に彩りや豊かさ、幅や深みをもたらしてくれるものです。


では、精神分析を教わることで身につく素養は何でしょう。それは自己分析の素養です。それも、自分と対話しながら地に足をつけて未来に期待するようなことにつながる自己分析です。少し前のブログで書いた、「それでも人生は生きて見る価値がある」という認識に結実するようなものです。分析治療を受けた方は、そのような自己分析の素養を身に着けて、卒業していかれるのです。


自己分析なら、大学生のときに就活でさんざんやったからもういい、という人もいるでしょう。それはそれでいいのです。小学校のお習字の授業で満足、あるいは、もうたくさんという人もいます(むしろ、そういう人のほうが多いでしょう)。でも、ちゃんと書道を習いたい、という人もいます。そういう人は書道の先生に習いに行ったらいいのです。


小学校のお習字の授業を受けると、とめ、はね、はらい、といった字を書く基本を学ぶことができます。もし教科書通りに書くことが嫌でなければ、そのとおりにキレイに字を書くこともできます。それも一つの素養です。


書道を習うと(どの先生に習ったかにもよりますが)、たとえば余白の使い方・活かし方を学ぶこともできます。それは字を書くときだけでなく、プレゼン資料を作成したり、自宅のインテリアの配置を考えるときにも応用できます。空間構成の美ということについて、何らかの感性が研ぎ澄まされるのです。これもまた貴重な素養です。どんな素養を身に着けたいかは人それぞれです。



抽象画を観る女性

ちょっと横道に逸れますが、余白というのは創るものです。「余」という字からすると、書かずに余った部分がそのまま余白になるのだろうと思われるかもしれませんが、意味のある余白というのは、字を書くことによって生み出されているのです。「余白を活かす」という言い方をよくされますが、あれは実質的には、書かずに余らせているというよりは、書くことによって空間を構造化しているのだと思います。


分析セッションに関しても、沈黙が大切、ということがよく言われます。それはそうなのですが、ただ黙っていても意味のある沈黙は生まれません。何かを話すことによって、その後の沈黙が意味を持つのです。その意味では、「沈黙が大切」という言い方は結果論的です。結果的に大切な意味を持つような沈黙が生まれました、ということです。したがって、これを目的論的に誤って使うと、「黙る」という行為を選ぶことになってしまいます。それでは、何も書かなければ余白が生まれるだろうという発想に近く、「沈黙」というよりは無意味な時間になってしまいかねません。実践上は、「沈黙が大切」というよりは、「大切な沈黙が生み出されるような対話を続ける」というほうが、余白は創るものという発想に近づきそうです。


さて、話を戻しますと、自己分析の素養についても、ベネッセが用意したフォーマットに自分を当てはめて分類するという類のものもあります。それは教科書通りのとめ、はね、はらいと似たようなものかもしれません。お仕着せのものということです。


あるいは、自分との対話を継続する力という類の自己分析の素養もあります。それは人生の様々な局面に応用可能です。発展性があるので、未来における展開が楽しみになります。後者をお望みなら、精神分析を教わるといいかもしれません。

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