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それでも人生は生きてみる価値がある

更新日:1月22日

このタイトルは、2021年に出版されたエッセイで、分析セラピストとして生きるおもしろさとは何か、という問に対して語ったことです。「それでも人生は生きてみる価値がある」と実感することが、分析セラピストとして生きるおもしろさだと。そして、クライエントに分析セラピーを提供するうえでも、「それでも人生は生きてみる価値がある」と思える境地があることに信を置いて取り組んでいくのだと。


このエッセイは、「次世代に勧められる職業へ」(精神分析的心理療法フォーラム 第9巻 2021年)というタイトルで書いたもので、分析セラピストという仕事がとても興味深く、やりがいのあるものだということを、できるだけパーソナルに綴ったものです。元々はある分科会のシンポジストとして発表したもので、その分科会は日本の精神分析コミュニティの過去を振り返り、次世代が担うべきものとそうでないものを忌憚なく話し合っていこうという主旨でした。その中で、私の発表はどちらかといえば未来を向いたものだったと言えるかもしれません。


象がモチーフの彫刻作品

ある職業の興味深さが学会誌に掲載されるというのは、その職業にぜひなりたいという人が一定数いるということが当然視できない状況があるということかもしれません。分析セラピストの訓練の一環として、セラピスト自身が分析セラピーを受ける(当オフィスでは「個人分析」と呼んでいるものです)わけですが、これがあまり受け入れられてこなかったのが、日本の精神分析コミュニティの特徴の一つと言われます。そのことが、セラピストの職業的自立を妨げ、自信を持って一人前だと言えるセラピストがあまり育ってこなかったという現実も確かにあるのかもしれません。


ただ、そのことを非難するというよりは、私はこんなふうに興味深く精神分析に取り組んでいますと自己開示することで、この仕事が日本に根づくための小さな種になれればな、と思ったような次第です。


といいますのは、私自身は分析治療を受けて、職業的自立を促されたのはもちろんのこと、プライベートにおいても、私や私の周囲の人たちの人生が生きる意味を持ち、未来に開かれたものになったというタイプの人間なのです。一言で言えば、腹落ちするような幸せを享受することができたのです。ですから、こんなにおもしろくて、クライエントにも自分にも恩恵があるような仕事なのだから、もっとやりたい人が出てきてもいいのにな、とナイーブに思ったりしたわけです。


精神分析が開く幸せというのは、自我が育ち、自分が自分の人生の主役であることを自覚するという意味での責任を引き受け、自分らしく生きることを使命感とともに楽しめるようなことです。日本社会は一般に同調圧力が強いので、自分を持ち、個として生きることが、必ずしも集団の中で歓迎されません。ですから、万人ウケするような幸せでないのは確かで、それほど多くの人のお役に立てるわけではないかもしれない、とウェブサイトに書いたとおりではあるのですが。


とはいえ、生きている限りは何らか自分が生きている値打ちというものを自覚しながら生きてみたいというのは、それほど突拍子もない願いでもないようにも思えます。


精神分析には、反復強迫という概念があります。無意識にずっと同じことを繰り返すということですね。これは、同じ仕事をずっとやっているとか、同じ相手とずっと付き合っている、といったことではありません。環境や相手はそのときどきで変わっていきますし、コンテンツとしては違うことを見たりやったりしていくわけですが、本質的な点で考えてみると、同じようなことをいつも繰り返してしまうということです。同じ相手とずっと付き合っていても、関係性に発展があるならば、反復的ではないということになります。というか、関係性に発展がないまま同じ相手と付き合い続けることはなかなかツラいものがあるのではないでしょうか。


さて、反復強迫から全く自由な人生というのもちょっと考え難いですが、あまりにも反復的な人生というのはやはり希望が持ち難いでしょう。反復強迫が強く働いているときの人生観というのは、「先が見えている」とか、「詰んでいる」とか、「どうせ人生こんなもんだ」とか、「このままこんな感じで終わっていくんだろうな」とかいったものではないかと思われます。同じことがずっと続いていくのだろうと無意識に感じ取っているからでしょう。これが以前のブログで「合わせ鏡」と書いたことです(ブログ「合わせ鏡から照らし返しへ」参照)。あるいは、一見前向きな「次の目標はこれ、その次はこれ、そして最後はこうなる」という人生観も、場合によっては、反復ゆえにあまりにも先が見えすぎているということもあるかもしれません。



この、ずっと同じ、を、続きアリ to be continued にしていくのが、精神分析だと言ってもいいでしょう。反復強迫をいくらか脱却して、未来に対する好奇心を取り戻すということです。ずっと同じ、が、次はどうなるんだろう(ワクワクという意味で。いやもちろん、ヒヤヒヤ、ドキドキ、ソワソワもありますけど、「つまらん、興味ない」ではない)、になっていくということですね。アニメやマンガのエピソードの最後に「つづく」あるいは to be continued と出るアレです。アレが出るのは、次は何か今までとは違う展開が起きるからですね。水戸黄門では to be continued とは言わないわけです。毎回、同じ展開ですから(それが安心するというニーズもありますけどね)。


これは「10,001回目は何か変わるかもしれない」(※1)ということとは少しニュアンスが違うかもしれません。それはどちらかというと、反復強迫に嵌っていることを認めたくないがゆえの強がりかもしれません(そうじゃない場合もあるでしょうけど)。10,000回も続ける前に反復に気づきたいものです。でも、転んでもただでは起きない気概は、七転八倒をただの反復による疲弊と諦めに終わらせないためには重要です。「見てて、あのときの私」(※2)と呼びかけたくなるような自分を見いだせるでしょうか。それなら、実際に10,001回目で何か変わることもあるでしょう。


そうして見えてきた自分の明日が、案外「昔欲しがってた場所」(※3)だったりして。それでも「なーんだ、そんなことか」で終わらない。そこには夢の続きがあるのです。ナイーブな願掛けの続きが。おとなの自分なら、その続きに形を与え、色を付けることができる。そんなおとなの自分を見つけることです。外野から見れば、ジャンクな物語にすぎなくても、「あの日の物語 明日の歌につなげようか」(※3)と詠えたならブラボーです。このフレーズを、「それでも人生は生きてみる価値がある」のオシャレバージョンとしてリスペクトしたいと思います。


※1 DREAMS COME TRUE「何度でも」より

※2 チャラン・ポ・ランタン「進め、たまに逃げても」より

※3 HIDE「Junk Story」より


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