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  • 執筆者の写真inolytictherapy

合わせ鏡から照らし返しへ

更新日:1月23日

合わせ鏡というのがありますね。2枚の鏡を向かい合わせると、互いの映り込みで無限に続くかに見える鏡の回廊が現れるというやつです。鏡の間に自分が入れば、自分も延々と鏡の回廊に映り込みます。


遊びでやる分には楽しいのですが、この合わせ鏡を自分の人生のメタファーと考えてみると、ちょっと恐ろしい。瞬時に後も先も見えてしまって、しかもずーっと同じことの反復。永久に続くようで、もう終わりが見えている。無限の奥行きがあるようで、実質的には平板。生きる希望や、生き続けることへの興味が湧いてこない状態に近いかもしれません。合わせ鏡をすると悪魔がやってくるという迷信は、こんな絶望にうっかり足を取られてしまうかもしれないという不安が関わっていたりするのかもしれません。


orii factoryの壁掛け一輪挿しと、造花アレンジメント

分析セラピーで行うのは照らし返しです。当オフィスのウェブサイトでは、「他者を映し鏡として」と述べたところです。「あなたはこうなのね」、「あなたはこんなふうに生きているのね」というように、自分の姿を、輪郭を、セラピストから照らし返されるわけです。自分の姿が映されるのですから、合わせ鏡と似ていなくもない。このあたりはメタファーの難しいところですね。文脈によってニュアンスが変わりますので。


合わせ鏡との大きな違いは何かというと、そこに他者の眼差しが含まれていることです。合わせ鏡には自分しかいません。未来まで見通せるようでいて、今の自分で見える自分しか見えない。それは未来のようでいて、今の写しなのです。ですから、終わりが見えているという感覚になるわけです。このままずーっとこんな感じで続いていくんだろう、ということです。


照らし返しにおいては、照らし返されるのは自分の姿ではあるのですが、それは他者の眼差しのもとに置かれた自分の姿です。その意味するところは、人から自分がどう見えるか、といった表面的なことに留まりません。むしろその発想は、眼差しというよりは「視線」という言葉に回収されそうな、被害感に彩られることが多いでしょう。人からどう見えるか、という自己観察を、他人の視線に苛まれるという被害感に絡めとられずに、自分の学びとしていくためには、その前提として、他者の眼差しのもとに置かれた自分がある必要があります。


照らし返し、というとき、どこから照らし返されるのかと言えば、相手の心の中からです。自分の存在が、いったん相手の心の中に留め置かれ、そこで眼差しを向けられている自分を感じるということになるわけです。相手の心の中は見えません。そこに奥行きというものを感じられるのです。相手の心の中の世界に、自分が眼差しを向けられるような存在として迎え入れられている。


ここに、「自分は自分でいい」が自己完結や自己満足に終わらない素地があります。「自分は自分でいい」が、そのまま他者との関係に開かれていくことです。自分が自分でそのまま相手の心の中に根付いているという感覚です。ここに至ってようやく、人からどう見えるか、というテーマについて、自分を萎縮させることなく考えることができるようになります。


石畳の小路

相手の心の中は見えません、と述べました。そこで自分が眼差しを向けられていることを感じ取るために、対話が求められるのです。直接、見たり、聞いたり、嗅いだり、触ったりすることができないので、対話やコミュニケーションを通して、たしかに相手の中に自分がいることを知るのです。


こうして、自分が自分のままで他者に開かれていくのです。後ろも前も今の自分の写しが延々続いていく、終わりが見えている、という合わせ鏡の世界から、誰かとの出会い次第では、まだまだ自分の人生が展開していく、まだ続きがある!という希望へと、本来の意味での未来へと・・。それが照らし返しの世界。


過去も未来も今の写しの連続、続きがない・・。そんな自分を、続きあり to be continued にしていくこと。それが分析セラピーです。

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