top of page
  • 執筆者の写真inolytictherapy

そんなにモノを買い与えていいんでしょうか

子どもから何かを欲しいと言われたとき、買うか買わないか親としての判断が試されます。そもそも家計的に買えないときには「ごめんね、それを買えるお金はないんだ」と言えばいいでしょう。そのことを率直に子どもと話し合うことで、子どもが現実を理解する手助けをすることにもなるでしょう。


判断が難しいのは、買おうと思えば買えなくもないのだけど、躾として我慢を覚えさせることも大切なのではないか、と迷うときでしょう。あるいは、モノを与えることでごまかして子どもと向き合うことを避けていないか、と思われるときもあるかもしれません。最適解はケース・バイ・ケースでしょう。このブログは、この子育ての難問に対する普遍的な答えを出そうというのではなく、この問題を考えるうえで一つの視点を提供してみようというものです。


「モノを買い与える」というときに言外に示唆されているニュアンスは、即物的な満足を即座に与えてしまうと子どもの考える力が育たない、とかいったことでしょうか。すると問題は、子どもに買ってほしいと言われたものを買ってあげることは、いつでも単に「モノを買い与える」ことになるのか、ということです。


もし、私たちが「どうしてライヴやコンサートなんかに行くの?なんにも手元に残らないのに1万も2万も払ってバカみたいじゃない」と言われたら、なんと答えるでしょう。おそらく、生の演奏でしか味わえないインパクトがあるんだ、とか、ライヴならでは一体感・高揚感・こみあげる衝動の爆発があるんだ、とかいった主旨の説明をするのではないでしょうか。つまり、「モノを買っているんじゃない!体験を買っているんだ!」ということを言いたいわけです。


この体験を買っているということが、子どものオモチャにも言えないでしょうか。単にモノを買い与えているのではなく、体験の機会を提供しているのだと。では、子どもが欲しがったものを買ってあげるときに、子どもにどんな体験を提供しているというのでしょう。


床に散らばるオモチャ

まず第一に、願いが聞き届けられるという体験でしょう。もっとシンプルに、願いが叶う体験と言ってもいいと思います。もう少し日常的な言い方にすると、「言ってみるもんだ」という体験でしょうか。


そんな万能感を子どもに与えていいのか!この世は叶わないことばかりじゃないか!もっと現実を教えないと!と思われるでしょうか。では、私たちは一体何に希望を託して、叶う願いの少ないこの世を生き延びているのでしょう。そうそう願いが叶うものではないという現実を受け入れることができるのは、いつか願いは何らかの形になるかもれないと、それとはなしに夢想するからでしょうか。その夢想の源泉は何でしょう。どこでその力が培われたのでしょうか。


たしかに、自分でお金を稼いでいる大人が、他人に何でもモノをせがんでいたら、ちょっとどうかと思います。しかし、多くの場合、子どもは自分のお金で欲しいものを買うことはできません。お小遣いがあってもタカが知れています。お小遣いというのは、金銭管理と自主性を育むための仕組みであって、欲しいものを手に入れる実質的な経済力にはなりえません(そうなりえるほどのお小遣いはまた別の問題がありそうです・・)。


つまり、子どもは自分のお金で買うという選択肢がきわめて制限されているので、欲しいものを手に入れるには、親を始めとする大人に頼むしかないのです。それは自分のお金で買うこともできる大人が他人にせがむのとは意味が異なります。もし、欲しいものを手に入れるためのほぼ唯一の選択肢を封じられたら、どのような体験になるでしょう。それはもしかすると、何かを欲すること、願いを叶えようとすることに対して罪悪感や恥ずかしさを覚えるという体験になるかもしれず、欲望を我慢するというよりは、そもそも自分の意志を持つことに対して萎縮してしまうかもしれません。あるいは、バイタリティにあふれる子どもであれば、正攻法(つまり大人にねだる)で願いを叶えることができないなら、非常手段に訴えるしかないな、と学ぶこともあるかもしれません。いずれにせよ、我慢を学ばせたいという大人の意図とは違った結末になりそうです。


「言ってみるもんだな」という体験を子どもの頃に積み重ねた人には、願いには形が与えられるだろうという希望が培われ、いずれ自分でお金を稼ぐようになった暁には、その希望に託して欲しいものが手に入るまで楽しみに待つことができるようになるかもしれません。


箱の蓋を開ける子ども

さて、願ったものを買ってもらうことそのものの体験について述べましたので、今度は、買ってもらったモノとの間での体験について考えてみましょう。子どもは当然のことながら、買ってもらったモノで遊びます。子どもの想像力は底なしですから、一つのオモチャを遊び尽くすのに2,3日しかかからないということもあるでしょう。これは、年齢とともに単位時間あたりの感動量と想像の躍動量が停滞してしまった大人から見ると、「せっかく買ってあげたのに、もう飽きてしまった。お金の無駄だったし、やっぱり簡単にモノを買い与えるのはよくないな」と言いたくなるような状況です。


飲食店のお子様セットに付いてくるちょっとしたオモチャなら、帰宅後1時間で遊び尽くしてしまうこともあるでしょう。こうなると、「あんなの、どうせゴミになるんだからダメです」と言いたくなります。(ちなみに、この手のオモチャはあのカゴの中から好きなのを一つだけ選ぶというのも楽しみですね。何が出るかわからないガチャと違って、自分で選べるというのがミソであるように思われます。)


しかし、子どもがオモチャで遊ぶ様子を観察してみますと、短時間のうちに本当にいろいろな遊びを試していて、その間めまぐるしくその子の中でストーリーが展開している様子が見て取れます。それに、いったん遊び尽くして飽きたように見えても、案外、子どもはそのオモチャのことを心に留めていて、あるとき急に、別の遊びをしているときに、「あ、そうだ!あれがあるじゃん」などと言って、ずっと飽きて遊ばなくなっていたように見えたオモチャを引っ張り出してきて、全く新しい文脈でそのオモチャに役割を与えることがあります。


ちなみに、与えるオモチャはなるべくアニメなどのキャラ付けがなく、シンプルで汎用性の高いものがいいのではないかという考えで、知育玩具などが好まれたりすることもあるでしょう。それはそれで子どもと親の好みに合っていればなんの問題もありませんが、あまり神経質にキャラモノを避ける必要はないでしょう。子どもはどんなオモチャであっても、その子なりの味付けをして遊んでいるものです。どちらかというと、観察している大人の側にとって、キャラ付けのフィルターがかかっていない中性的なオモチャの方が、子どものオリジナルな成分を選り分けやすいというメリットはあるかもしれません。


さて、ここまで買ってもらったオモチャとの豊かな遊びの体験を書いてきましたが、その中でずっと、観察している大人の存在を強調してきました。子どもの想像力はたしかに豊かです。しかし、それが花開くためには、子ども自身が自分の想像力を楽しめるためには、そばで一緒に楽しんでくれる大人がいることが大変重要なのです。


観察すると言っても、いつもじっくり時間を取ってそばにいてやらなければいけないわけではありません。家事をしながら、あるいは仕事をしながら横目で見ていて、「えー!大変!事故っちゃったの?誰か助けに来てくれるかな」とか、「それ、そんなふうに飛ぶんだ、おもしろいね!」とか、「あらウサギさん、どこかへおでかけですか?」とか、声をかけてやれば、子どもはちゃんと見ててくれたと思って嬉しくなるでしょう。


しかし、もし、こうした子どもの遊びに関心を持たず、オモチャに子どものお世話をお任せしてしまうなら、文字通りの意味で「単にモノを買い与えただけ」になってしまうかもしれません。

最新記事

すべて表示
bottom of page