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セラピストの国語辞典8〜「バカを見る」

「バカを見る」という経験はできることならあまりしたくないものです。自分が情けなくなります。自分はなんであんなことをしてしまったんだろう、なんで今まで気づかなかったんだろう、またこんなことを繰り返してしまった、などなど、恥ずかしいやら、もったいないやら、後悔の念に苛まれます。


しかし、もし今まで「バカにする」癖があったという場合には、「バカを見る」というのは画期的な経験になるかもしれません。ここで「バカにする」というのは、人のことをバカにするということよりも、自分のことをバカにすることを念頭に置いています。社会的には、人のことをバカにする方が問題かもしれませんが、それは得てして、心の中で自分をバカにすることに耐えかねてバカにする対象を自分の外側に求めた結果であったりします。ですから、心理的には自分をバカにすることを念頭に置いて考えるわけです。


穴から見上げる景色

自分をバカにするというのは、「自分はどうせ〇〇だから・・」とか、「こんな〇〇な自分はどうにかなってしまえばいい」とか、あるいはもう少し大人びた感じで「自分が〇〇な短所を抱えていることは重々承知だ」といった形で表現されるかもしれません。これは、ちょっとしたポジティブ思考で、「それって、自分の短所を自分でわかっているってことですよね!自己分析できてるってことじゃないですか!」とか言えてしまいそうな状態です。


しかし、実はこの「自分でわかっている」というところが曲者なのです。自分で自分を観察しているわけです。実際、多くの場合、自己観察能力はメンタルヘルスにおいて重要な機能の一つでしょう。しかしながら、自分をバカにするときには、この自己観察能力を逆手に取っているようなズルさがあるように思われます。


どういうことかというと、自分をバカにするとき、バカな自分を微妙に他人事にしてないだろうか、ということです。自分がバカなことを自分はわかっている、というとき、自分自身は「わかっている側(バカではない!)」にいるようです。「わかっている自分」が「バカな自分」を指さして、「コイツ、バカなんですよ」と言っている構図です。つまり、本質的には、自分がバカなことを認めていないわけです。バカなことしちゃう自分を、あくまで自分は「わかっている!」と主張しているわけです。このように書くと、なんだか既存の事実を自分が命令してそうなったのだと主張する、星の王子さまに出てくる王さまを連想します。


このやり方が巧いのは、表面上は内省に見えるところです。内的な構図としては、わかっている自分とバカな自分を分けているとしても、どちらも自分のことですから、表面上は、自分でやったことを自ら反省しているように見えますし、人をバカにしているわけではないので迷惑もかけません。うまくいけば、謙虚な人だという評判までついてくるかもしれません。


ドアから出ていく

こういうことをやってしまいがちなとき、「バカを見る」体験は変化のきっかけになってくれるかもしれません。なぜなら、「バカを見る」というのは、自分がバカであることをとことん見ることになる経験だからです。バカな自分と、それをわかっている自分の分裂がなく、ほとほと自分が情けなくなる経験です。こうなると、斜に構えて「まあ、自分なんてこんなもんスから」とスカしていることはできなくなります。このままではいられないという思いが湧いてきます。自分がやっていたことなのだけど、どこか他人事のようにすませていたことが、いよいよ自分事として経験されるわけです。ここに至ってようやく、経験から学ぶことに着手できるという場合もあるかもしれません。


※このブログから、いわゆる「底付き体験」を連想されるかもしれません。アルコール依存症などで、とことん失敗を重ねて全てを失うとようやく治療に本腰を入れるようになるという考えです。しかし、私が念頭に置いているのは、「巧い」「謙虚という評判」という表現にも示唆されているように、社会的にはそれほど問題なく(あるいは卒なく)やっていても、主観的にはどこか自分の生き方にはごまかしがあるという疚しさを抱えているようなパーソナリティの苦悩のことです。依存症では、社会的関係においてすでに恥の体験を重ねてきていることが多いと思われます。したがって、必要なのは「バカを見る」体験ではなく、依存症に対する理解と、「底をつくまで治らんね」などと匙を投げずに付き合ってくれる治療者です。

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