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セラピストの国語辞典2〜「責任」

更新日:1月23日

今回は「責任」という言葉を取り上げてみようと思います。「責任」という言葉はしばしば重く受け止められているように思われます。つまり、できれば背負いたくないようなものとして・・。それは、おそらく、「責任」という言葉が、「なにか問題が起きたときに罰を受ける役」という意味で捉えられているからでしょう。いわゆる、「責任を取って辞任します」というやつです。


これでは、「責任取りたくない!」という人が増えるのも無理もありません。問題に取り組むよりも、失敗したときに責任を負わなくていい方法を模索するような動きに出たくもなるでしょう。この意味での「責任」は、押し付けられたり、順番が回ってきてしまったために、イヤイヤ引き受けるものになっています。あるいは、うまい汁を吸う代償として矢面に立つこと、という意味になっている場合もあるかもしれません。


それとは別に、「責任」の英訳であるresposibilityという言葉から「責任」を考えるとどうでしょう。直訳すれば「反応可能性」あるいは「反応できる能力」といったところでしょうか。いろいろな解釈があるでしょうが、こんな場面を想像してみましょう。「私では判断いたしかねますので、上の者に確認いたします」。多くの方が一度は言ったことがあるセリフかもしれません。ここで言っているのは、自分は責任者ではないので、何ができるか決めることができない、ということです。逆に言えば、責任者であるということは、何ができるか、どう対応するかを判断し、決めることができるということです。この、「どうするか決めることができる」ということが、「反応できる能力」ということの意味ではないでしょうか。


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つまり、この意味での「責任」は、「自分で決められること」であり、「罰を受ける役」とはずいぶんニュアンスが違います。「責任を引き受ける」とは、自分のことは自分で決められるようになることであると言われれば、引き受けることへの誇りや気概を感じられそうです。


でも、この意味での「責任」を引き受けている人(享受できている人、と言ってもいいでしょうか・・)は意外と多くないのかもしれません。「罰を受ける役」という意味での「責任」が、必ずしも「自分で決められる」という意味での「責任」を伴っていないことも多いからです。たとえば、事実上さらに「上の者」の意向を汲まないといけないとか・・・。


そう考えると、自分でresponseを決められるという意味での「責任」は、自分から意識して引き受けに行かないと手に入らないものとも言えるのかもしれません。そして、もし引き受けることができたのなら、それは「自由」にもつながっていくのでしょう。


また、具体的な対応を自分で決められる、ということだけでなく、心の現実、つまり自分が何を考え、何を感じているかということも、自分で引き受けることが「責任」というふうに考えることもできるでしょう。この場合、自分の考えや感じ方を自在に操ることはできませんから、自分の心の現実をそれとして引き受けるということになるでしょう(具体的な対応にしても、自分で決められるというのは、なんでもやっていいということではない、というのと同様です)。


これは、自分が考えていることを人のせいにはできなくなるという意味で、それなりのタフさが必要です。ですが、周りの意向に振り回されずに、自分の内的な価値基準に照らして納得のいく選択ができるという意味では、チャレンジに見合った実りがあるでしょう。


水路にかかる橋

少し横道に逸れますが、そうした選択が一人よがりにならないためには、内的な価値基準が「自分」から独立している必要があります。自分の価値観なのだから、自分で自由に変えられるだろうと思われるかもしれませんが、それでは一人よがりになってしまうのです。逆説的ですが、自分の意志ではそう簡単に動かせないからこそ、内的な価値基準の意義があるのです。


難しいことを言われているとお思いでしょうか。要するにこういうことです。

ここはこうしておいたほうが無難だよなぁ。あまり事を荒立てたくないし。思い切ってやってもうまくいくかわからないし。でもなぁ。本当にそれでいいのかなぁ。それで後悔しないかな?いつもこうやって、逡巡しているうちにチャンスを逃してしまうんじゃないのか?そうしたらまた、いつものあのパターンだぞ。ここが踏ん張りどころなんじゃないかしら・・・


つまり、内的な価値基準と自分との間で対話が行われるのです(ちなみに、上のカギカッコのイタリック部分が自分の意志、アンダーライン部分が内的な価値基準からの呼びかけです)。これで、内的な価値基準が自分から独立している必要がある、ということの意味がおわかりでしょう。内的な価値基準が自分の意志で簡単に動かせてしまうと、私たちは自分都合の一人よがりになったり、易きに流れたりするのです。そして、そこにはすぐに「本当はこうしたくなかったんだ」という自己弁護が入り、内心では納得していないために結果を引き受けることも回避したくなるわけです。


さて、横道に逸れると言いつつ、辿り着いてみればやはり「責任」の話のようです。ここまで述べてきたような、「心の現実を引き受け、周囲の意向に振り回されず、なおかつ自分自身の内的な価値基準との対話を維持し、易きに流れず、その結果を引き受けられるだけの納得の行く判断と行動を選択すること」。これって、「矜持を持った責任あるおとな」っぽくないですか?


私たちは、しばしば押し付けられたり、イヤイヤ背負ったりするものとして「責任」を捉えがちです。すると、できるだけ思い切った行動を回避したくなります。事なかれ主義や前例主義の温床です。しかし、「責任」とは、そうした重苦しくて陰湿なものばかりではありません。自分の人生の主役になるために、矜持を持って引き受けるだけの価値のある「責任」もあります。何事にも、借り物ではない、自分なりの反応responseを返せる能力ability。responsibilityのお話でした。

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