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セラピストの国語辞典1〜「ごめんなさい」

更新日:1月15日

分析セッションにおいてしばしば話題になる言葉というのがあります。それらは、日常生活においてもありふれた言葉なのですが、それだけに各人が微妙に、ときには大いに、異なるニュアンスで使っているため、相互の誤解を生じやすい言葉たちでもあります。


そこで、当オフィスでは、ブログで「セラピストの国語辞典」シリーズをときどきご発表し、読者の皆様が考えを整理するのに寄与できればと考える次第です。シリーズ第1回目は、「ごめんなさい」という言葉を取り上げてみようと思います。


「ごめんなさい」が言えることは、子どもの躾において一つの里程標と考えられているでしょう。しかしながら、「ごめんなさい、と言えばすむものじゃない」などと言われてしまうこともあります。「ごめんなさい」は反省・謝罪の言葉であると同時に、「ゆるしてください」の意味でもあります。つまり、自分自身に目が向く要素と、相手の気持ちに目が向く要素があるといえます。


自分自身に目が向くと、自分が何をして、それがどういう結果を招いたのか、振り返ることになります。本来の意味での反省です。内省と言ってもいいでしょう。こうした内面的なワークは、経験から学ぶことをもたらします。「ごめんなさい」と言うのは自分の罪を認めることで、心の痛みを伴いますが、内省し、経験から学ぶことができれば、成長の機会ともなるでしょう。


相手の気持ちに目が向いているにしても、誠実に謝れば赦してもらえるという期待がある場合には、安心して自分自身に目を向けかえることができます。内省の始まりです。それは成長に繋がります。(なお、赦してもらえる期待というのは、人間一般に対する信頼感のようなことを言っています。個別事例においては、人を赦す気のない不寛容な相手に対して、誠実に頭を下げたりすると、こちらが一方的に責任を押し付けられるだけかもしれないので、サバイバル戦略を考えることは大切です。)


つらいのは、相手の気持ちに目が向いていて、しかも、赦される期待がない場合です。つまり、「どうせ自分が悪いことにされるんだから、とにかく謝っておいたほうがいい」という動機で「ごめんなさい」と言うときです。こうなると、相手の怒りを鎮めることに関心が集中してしまうので、自分自身がやったことには目を向ける余裕がありません。経験から学ぶ機会を逸してしまうということです。


また、「どうせ自分が悪い」という前提で考えるので、反省をしているつもりでも、実際には自己卑下になってしまいます。自己卑下は、自分という人間が嫌になり、いくら続けても何かを学べたという実感に結びつきません。自分に対する態度としては、きわめて苦しいものの一つでしょう。さらには、自己卑下的な態度は、不寛容な相手の怒りの餌食にされることもあります。もうそうなったら泣きっ面に蜂です。


アンティークの下駄箱に斜めに差し込む光

さて、ここに一つの逆説が見えてきます。最初から「どうせ自分が悪いんだ」(正確には、「悪いことにされるんだ」ですが)、と考えていると、かえって自分のどこが至らなかったのか見ることはできないということです。自己卑下の沼に足を取られると、「自分は悪い人間」という観念ばかりが塗り重ねられ、ではどうしたらいいのか、ということが見えてきません。


お気づきの方もいらっしゃるでしょうが、この話は「ごめんなさい」を言わせる側の人にとっても示唆的です。相手を恐がらせて無理やり罪を認めさせても相手の成長にはつながりません。かえって、おっかなびっくりに相手の顔色伺いをする人にさせてしまいます。それは、「ごめんなさい」と言わせた側の人にとっても、望んでいた結末ではないのではないでしょうか。


「ごめんなさい」が言えること、という里程標で想定されているのは、おそらく自分で自分の至らぬところを内省し、自分を変えていける人でしょう。それは、至らぬ自分が赦され、ともに考えてもらうという経験をさせてもらえたかどうかにかかっています。


「ごめんなさい」と言うから赦されるのではなく、(かつて)赦されたから「ごめんなさい」が言えるようになるのですね。


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