
分析セラピーとは
当オフィスで「分析セラピー」と申し上げているのは、専門的には「精神分析的心理療法」のことです。その元になっている「精神分析」と区別するために、「精神分析的心理療法」と言っているのですが、学術的には大切な区別であるとはいえ、普段使いするにはいささか煩雑な名称ですから、「分析セラピー」と略称することにいたしました。
さて、分析セラピーとは何か、というと、その答えはセラピストの数だけあるということになるでしょう。なぜなら、精神分析とは、人が個になっていく、自分自身になっていくことを擁護するものですから、その訓練を受けたセラピストは、それぞれが自分自身の、分析セラピーとはこういうものだ、という考えを持つに至るからです。
では、私はどう考えているかと申しますと、分析セラピーとは、「自分を知ることを通して、変化や成長を目指すワーク」であるということになるでしょうか。
私たちは自分のことをよく知っているつもりで、あるいは知っているからこそ、もう手を付けられないと思っているテーマは棚上げにして生きています。そして、棚上げにしたことも忘れて、「まあ人生こんなものだ」と自分に言い聞かせているわけです。それはそれで、生きていく方便の一つでしょう。
しかし、ときに私たちは自問します。このままでいいのかと。自分は自分という人間を十分に生きていないのではないか、どうも嘘っぽさが拭えない、自分の人生の主役になれていない、などなど…。それはいわば、自己存在に対して顔向けできない、自分に対して申し訳が立たないといった、自分に対する罪の意識とも言えるでしょう。
あるいは今の自分を変えたい、成長したいと切実に望みます。なりたい自分がある。でも何かが足を引っ張っている。もう自分なんかが幸せになれるはずがないと。それは、どこかで失われた自分の声に息吹を与えようとする希望と、寝た子を起こすなと諦めさせようとする従順なる自分との葛藤とも言えるのでしょう。
とはいえ、自問自答には限界があります。棚上げにしたのははるか昔(棚上げはごく幼少期に完了してしまいます)。どこに放り込んだのか、どうやって上げたのかも、もはや記憶の彼方。私たちは途方に暮れます。
そのようなときに、棚卸しのお手伝いをするのが分析セラピーであり、お相手をいたしますのが分析セラピストということになります。セラピストを相手に、自身の心の赴くままに身を委ね、自分の中からどのようなイメージ、情念、情動が立ち現れてくるのか、興味を持って語ってゆきます。知っていたつもりの自分が、知らないでいた自分に出会います。語られぬまま心の奥に片付けられていた言葉が、語られることでセラピストの言葉と出会います。それまで語り得なかった自分に輪郭が与えられ、その自分を労ることも、その自分から卒業することも、考えることができるようになります。
あるいはその過程で、そう簡単には身を委ねることができない自分に気付きます。何かが足を引っ張っています。そこでも、セラピストの言葉と出会うことで、自分が何に抵抗しようとしているのか、観察することができるようになります。
つまり、分析セラピーにおいて自分を知るのは、他者とのやりとりを通して、なのです。他者を自分の映し鏡とし、自分はいかにして今の自分なのか、本来の自分は何者なのかと、探求の旅を始めることになるのです。
分析セッションにおいては、セラピストが自分の映し鏡となります。またセラピストの言葉を足がかりとして、実生活における様々な付き合いや活動もまた、自分の映し鏡としての「他者」として、認識されることとなります。
旅路は長くなることが多いでしょうが、目的地までなにもないわけではありません。むしろ、道中のあれこれ、すったもんだが、旅の醍醐味となるでしょう。いつしか、以前の自分とはずいぶんと違ったところから自分や世界を見て、体験していることを発見し、驚きとともに、でも本当は元々知っていたことかもしれない、という不思議な(案外、しっくりとくる馴染み深さも)感情に至るでしょう。
さて、ここまでお読みになっておわかりかと存じますが、「セラピー」「療法」とは申せ、その本質は、「癒やし」とは無縁です。そのプロセスの中で、理解された、抱えられた、という局面はあるにせよ、本質的には、自己成長に向けた内的ワークをやり抜いていくこととなります。分析セラピーの出自であるところの精神分析psychoanalysisのどこにも、therapyという言葉が見当たらないのは、故なきことではないのです。
ですから、必ずしも多くの方のご期待に沿えるものではないと思われます。しかしながら、もしご興味を覚えられたなら、あなたの旅路にぜひともお伴いたしたく、お待ち申し上げております。